魂
季節のお祝いもイベントも
流れる毎日の一つに過ぎないという感覚になっているこの頃だけど
今日は特別な日だ
悲劇のヒロイン気分でこれを書くのか?
と自問自答している私がいるけど
被害者意識がなくなった今
敢えて書いておくことにする。
16年前の今日は 長女が生まれた日
結婚と同時に男の子の母になり
初めての妊娠は流産
なぜか何かに負けた気がした
焦りに取りつかれながら 必死で次男を出産
思えば【自分が産む子ども】に執着していた
私が未来を想像するときは 娘がいた
三姉妹で育ったから子どもと言えば女の子だっのかもしれない
夫も娘が欲しかった
希望通り、でも予定よりずっと早く
私は小さな娘を産んだ
生まれた娘を見せてもらえず
私以外の人たちは全員バタバタと動き回り
あっという間に娘は救急車で別の病院に運ばれ
ドラマのような展開だった
運ばれた病院でも対応出来ず転院
ここから私達は本郷に通うこととなる
寒い日に生まれたけど
日だまりの菜の花ように
あたたかく強く育つ意味を込めて
名前を日菜子にした
何万人に一人の心臓疾患 とか
手術して胸を開きっぱなし とか
最新の何とかを使えばどうとか とか
説明 印鑑 説明 印鑑
何を承諾したのかもほとんどわからない
夢みたいな毎日だった
PICUに入る前の厳重な消毒
普通病棟に溢れるほどいる子ども達
たまにくるピエロ
家族待機室で泣いている人
わたしの分からなかった
ドラマでしかなかったことが
どんどん現実に押し寄せてきた
満開の桜を見ていた
手術室に呼ばれ 向かうエレベーターで誰かに
「お互い早く良くなるといいですね」
と声をかけられた
笑顔で はい、と言った私は
どんな気持ちだったのかも分からない
日菜子は
雪が降るかと思うような寒い日に生まれ
桜が散るまで生きた
そして子どもを亡くしても私は生きている
朝になれば目が覚めて
ご飯を食べる
トイレに行く
テレビを見る
ご飯を作る
買い物に行く
そのすべてに絶望したし
そんなものなんだとも思った
私には未だに日菜子が死んだとは思えない
きれいごとではない
肉体がなくなったのは事実だけど
魂は確かにあると感じている
それは仏壇でもお墓でもないところにある気がしている
今日は、ケーキを食べる